約束の雨、時計の呼ぶ音 -1992/10/4- |
俺は軽くため息をついて空を見やった。 雨が降り出しそうだった。 こんなに待たされるとはね。傘を持ってきてないのによ。 うらめしい思いで太陽の隠れた曇空を睨む。 それにしても何分待ってるんだろう。あいつがこんなに待合せに遅れるなんて初めてじゃないだろうか。 まさかとは思うけど、なんかあったんじゃないかと、つい悪い方へと考えてしまう。 これというのもこんな天気もせいだ。気分が滅入る。 それにしても。 何だろう。今までこんな気持ちになったことは一度もなかった。 何となく不安で、そして心配だ。 まるで、かりそめの呼吸のように息苦しい。 嫌な天気に嫌な気分だった。 待ってるよ。 ずっと待ってる。 あなたが来てくれるまでずっと。 そして。 もし、喬が来たくないのなら、来るようにしてあげる。 ぜったい、あなたが、ここに来るように。 たとえ、どんなふうに思われても。 必ず時計があなたを呼んでくれるから。 だって、ずっと待っていたんだよ。 駅前の、ちょっとした待合せにはぴったりな広場。 いつもなら恋人を待つ人や、ツーショットで埋まっているベンチも、今は、その存在理由を失っている。 もっとも、俺がいるせいで完全なプライベートタイムを満喫できないのはそれはそれで幸福かもしれない。座ってもらえてこそ幸せってものだ。 それにしても静かだった。 耳がキーンとなって、逆にとてもうるさく感じられるほど。 たとえるなら、耳の中で、サイレンが荒れ狂っていて、麻痺しているような感覚。 そういや、人も……全然来なくなったようだった。 改札口から流れてくる人もパッタリと止んでいた。 いや、電車自体が来なくなった……ような気がする。 静かだった。 自分の他には動いている人が一人もいないかのような、起きているのは世界中で俺一人だけのような、そんな錯覚を感じた。 錯覚? 本当に錯覚だろうか。 何かとんでもないことが起こって、この世界中で生きてるのは俺一人。これから俺は、たった一人で生きていかなきゃいけない。友人や家族、そして沙耶さえもいなくなった存在する意味のない色あせた世の中で。 冗談! 自分で考えたことに、思わずぞっとして、苦笑する。 だけど、それにしても。 変だった。 静かすぎる。 普通じゃない。 何か気味悪くなって、俺はともかくここから離れようと、改札口の方に向いた。 目の前には時計台があった。 広場の中心にあるしゃれた造りのそれは、ここのシンボルでもある。 あれ、時間が……? 時計台の針は、俺がここに来た時間を指していた。 慌てて自分の腕時計を見る。 えっ……? それには針がなかった。 確かついさっきまではあったよな……。 着たときに時間を確認したのだ。 それなのに。 時を刻むこともなく、したがって時を報らせることもないそれは、もはや時計とは呼べない。 それは指で触れると、ひんやりして冷たかった。長いこと、雨でも降ってる外にほっぽりだしていたように。 「てッ……!」 急に、腕時計のクリスタルが割れて、破片が指先をかすめたのだ。血が赤い糸を引く。 そのとき俺は、すぐさっきにもこれと同じ色、同じ匂いを目の当たりにした、そう思った。 でも、そんな覚えはない。既視感というもの? 考えれば考えるほど、時間という概念がひどく曖昧になり、急速に現実から遠ざかっていく。 どうなっちまったんだ? それは、本能的な恐怖感を伴うことだ。 まるで、確かな支えを一瞬で失ったような、いつも足の裏にあった硬い地面が、突然消失したかのような頼りなさ。 俺は胸に衝き動かされる何か、不安とか恐怖とか、そういったものを振り払おうと、この奇妙でつかまえどころのない悪夢から逃げようとした。 とん。 突然、肩に触れた何か。 ぎょっとしてふりかえる。 視界を遮る人影。 なんだ……驚かせるなよ。 「沙耶、遅い。どんなに待ったと……?」 沙耶、じゃなかった。 俺の肩に手をのせたのは女の子ではあったけれども、そのびっくりしたように俺を見つめるその顔は、よくよく見れば沙耶とは似ても似つかぬ顔だった。 遠くサイレンの音が聴こえる。 時計台は損壊して沈黙し、その前には人を寄せ付けないようロープが張られていた。 雨は上がり始め、雲が勢い良く流されて行く。 交通課が、車両整理している傍らで、鑑識が濡れたアスファルトを検分していた。 そこにはまだ、紅い血が雨に流されずに残っていた。 「ふーん、彼女を待ってたんだ」 彼女、高村綾乃さんは、ちょっと大きめの瞳と、肩口でソバージュのかかった茶色っぽい髪が印象的な、長くていつも艶やかな黒髪をしている沙耶と比べても、見劣りしないくらい可愛い娘だった。 歳は俺と同じかホンの少し上くらいだろう。せいぜい二十歳ってところだ。 彼女も人待ちだった。 「綾乃さんが待ってる人ってやっぱ彼氏?」 「まあね。でもちょっと遅れちゃって。ねえ喬君、他に誰か待ちぼうけの人、見なかった?」 「いや、なんか、気味悪いくらい誰もいなくて。それに……いや、なんでもない」 俺はさっきの異様に不安感を掻き立てる情景が、にこやかに笑っている彼女を見ると、実は俺の中で勝手に創造された白昼夢のような気がして、そのことを彼女に話す気にはなれなかった。 それでも、もし本当のことだったとしたら。そう思うと怖くて腕時計を見る勇気はでない。 そもそも、そのことがあの恐怖を感じるような雰囲気を創り出したんだ。そんなふうに思えた。 だから、もしまた針がなかったら、そう考えただけで、さっきの孤独を思い出してぞっとするのだ。 でも今は目の前に綾乃さんがいる。 他人だとしても、人の存在するという重みがこんなに温かいものだとは知らなかった。 自分が軟弱だとは思うが、さっきのような思いは二度としたくない。 孤独と仲良くできる奴は気狂いだけだ。 それには程遠いはずの俺にとって、冗談ですますのさえ気持ちの整理に時間がかかる。 ましてや、実際に起こったことだと認識するのは不可能に近い。 だったら気にする必要はないのに、ぐだぐだとさっきの孤独を思い出してしまう。 堂々巡り。 だから、あえてそのことには触れないことに決めた。 「綾乃さん素敵だから彼氏もいい人なんだろうね」 俺は話題を変えようと彼女に話しかけた。 「うん。待合せ時間に遅れるような人じゃないんだけど」 「ふーん、沙耶もそうなんだ。どうしたんだろう?」 結局、どうしても話はそこに落ち着く。 それだけに、背を向けた時計台には目を向けられない。 むろん怖くて。 胸を圧迫するような不安感。 胸騒ぎだ。 「沙耶って、喬君の彼女? すっごく奇麗な長い髪の……」 彼女がびっくりしたように俺を見る。 俺は頷きながら、彼女の手をとって、 「知ってんの、沙耶を?」 俺の手に触れた彼女の手は、フワフワで質感がなく、いうなれば現実感がなかった。 そう、まるで蜃気楼を掴もうとしているように。 これだったら、夢の方がどんなにか現実感がある。 「話してたよ、ずっと。彼を待ってる間。ずっと……」 「ちょ、ちょっとまってよ」 俺は思わず遮った。 変だ。何かがおかしい。 彼女はついさっき来たばかりじゃないか。俺の方が彼女よりも早く来ていたんだ。 なのにどうして……。 「いったい、いつのこと?」 「さあ、わかんない。ずっと前だったような気もするし、ついさっきだったような気もする。でもやっぱりずっと昔だったような……」 彼女は、別にふざけているとか、からかっているというわけでもなく、本当にそう思っているらしかった。 「綾乃さんがここに来たのはいつ?」 彼女はちょっと眉根を寄せて、考え込んだ。 やがて、諦めたように首を振る。 「わかんない。いつのことからか。ただ、時間の感覚がどんどんなくなってきちゃって……。どうしたんだろう?」 それは俺も感じていた。 待つことに苦痛を感じなくなって、つまりは、一瞬後と、一時間後の区別に境目がなくなって、いっしょくたになってしまったような。 待合せの時間は三時だった。 聞いてみると綾乃さんもそうらしい。 いったい、どれくらいの時間が過ぎたんだろう。 何度目かの自問さえ、得られる答ではないのはわかっている。それでも、問わずにはいられなかった。 そして、解決方法は一つ。 時・計・ヲ・見・ル・コ・ト……。 それは、何となく分かっていたことだし、唯一の答えにすがる道筋なら、やらなくちゃならないことだろう。 たかが、時計台に目をやることぐらいなんだってんだ。 努めて自分にそう言い聞かせて、俺は、綾乃さんから目をそらせると、ゆっくりと時計台へ向き直った。 野次馬連中は、ある程度減ってきていた。 ただし、買物帰りだろう、スーパーのビニール袋をぶら下げた主婦然とした中年女性達は、三人ほどが一つのグループを造り、おもむろに井戸端会議をはじめる 「車を運転してた人は重傷で、救急車に運ばれてったのよぉ……」 その目の前で、赤い車がレッカー移動されていく。 それは、ひどく破損していて、フロントガラスの割れた隙間から、シートにべったりこびり付いた血糊が、ほの暗く見え隠れしていた。 「ごめんよ綾乃、遅くなって」 えっ? 俺が時計台に向き直ると、見知らぬ男が歩いてくる……。 「修一、遅いじゃないっ。もお、心配したわよ」 どこから? どこから彼は現れたんだ? 俺の視界を横切らなければ、広場の真ん中になんて行けやしないだろうに。 「悪い悪い。渋滞に巻き込まれちゃってさ」 車? エンジン音なんか聞こえやしなかった。それどころか、人のざわめき一つ聞こえてきやしないのに。 「じゃ、ごめんね。早く沙耶ちゃん来るといいね」 言って綾乃さんはクルリと振り向く。そのまま彼の腕に自分のそれを絡ませ、歩き去って行く。 「ま、待って……!」 二人は、何事か楽しそうに笑い合いながら、俺の存在など忘れたように気付こうともしない。。 マテヨ。サヤハドウシタンダ? 声にならない声が、もう一度二人を呼び止めようと、虚しい努力を繰り返す。 それなのに、それはやはり彼女達には届かなくて、俺を心の底から焦らせた。 水滴が頬に触れた。 雨が街を覆い始める前兆だ。 みるみる路面がシミで黒く変わっていく。 呆然と、声をかけることも、駆けよって行くこともできずに、俺は彫像のように立ち尽くしていた。 やがて二人の姿は、その雨の中に溶けていくように消えていった。 消えた? そう、消えていったのだ。 突然に消えたとか、そういうわけじゃなかったが、徐々に風景に混ざり合っていくような普通の遠ざかりかたじゃなくて、少しずつ粒子が拡散していくような不自然な消えかただった。 ザザァ−− 雨にすっぽりと包まれた街。 静まり返っていた街が、雨音でくるまれ、モノ哀しい活気を帯びる。 ザザァ−− さらに勢いを増した雨足は、横なぐりとなり、容赦なく俺を叩きつけた。 静寂の街。 雨の喧噪。 そして、たった一人取り残された俺。 孤独。どうしようもないほどの孤独感。 不安。異常に頼りない現実の中で。 嫌だ! もう嫌だ。 こんな、命の息吹をまったく感じられない閑散とした灰色の空気、死の世界なんて。 俺は広場を後にしようと走り出した。 「待てよ」 えっ? 俺の目の前に突然出現したとしか言いようのない男。 彼は綾乃さんの……。 「どうして……?」 ここに、と言いかけて、彼のただならぬ雰囲気につと口をつぐむ。 「逃げるのかよ」 彼は、俺の胸ぐらをぐいっと掴んで、見下げるように睨む。 怒りで目が血走っていた。 「……いったい?」 俺は、彼の突然すぎる現れ方よりも、なぜこれほどの怒りをぶつけてくるのか、そっちのほうが気になって、その不可解さが俺を気持ち悪くさせた。吐き気がする。 彼は、力を込めて突き飛ばし、俺はぶざまに尻もちを付く。 そのままの格好で、睨み合ったままいくらかの時間が過ぎ、やがて彼は口を開いた。 「あのときオレはここに来たばっかりだった。お前の彼女もそのときいたよ」 「……なに……?」 何を言っているんだろう、この人は。 「綾乃は、お前の彼女と楽しそうに話してたっけ。オレが着いたばっかりのときだったんだよ、お前が突っ込んできたのはな」 刹那、掠れたビジョンが脳裡をよぎった。 雨。 スピードの出しすぎた赤い車。 切り損ねたハンドル。 そして、フロントガラスに迫る、恐怖にひきつった三人の顔。その後ろには見慣れた時計台が……。 俺は、地面の異常に冷たいアスファルトに手を付いて、立ち上がろうとした。 不快な感触があって、視線を下げる。 掌が真っ赤だった。 「そうだったんだ。あなただったのね、私達を……」 奇妙に冷静な気持ちで目を上げると、綾乃さんが頬を怒りで紅潮させて立っている。 涙だ。紅い涙。血が流れる。コンクリートの地面が血の池となり、雨がそれを洗い流そうとする。 けれども、血はあとからあとから流れ出て、俺の視界いっぱいを、激しい、目を覚ますような鮮紅色で彩った。 いや、悪夢は終わらない。 むしろ、夢のようなたよりなさが、やけにくっきりと、一層の重みを増してその存在を強引に押し付けてくる。 「あなたが……わたし達を……」 コ・ロ・シ・タ・ン・ダ。 殺したんだ。 コ・ロ・シ・タ・ノ・ハ……オ・レ? 「嘘だっ! そんなことって……だって綾乃さんだってそこに生きて、しっかりと立っているじゃないか」 絶望しながら。 それでも言わずにおれなかった。 「綾乃さんの彼氏だって、そこにそうして生きているじゃないか……」 知らず涙が溢れて、雨滴と混ざり合った。 「ええ、その車に追突されて……」 「恋人同志みたいな男女と、彼らと話していた女の子が……」 「車を運転していた人は重傷だけど、さっき病院に運ばれて……」 ちょっとした人だかり。 井戸端会議は新たに加わった主婦を混ぜて、おなじ言葉が繰り返される。 路面には、タイヤの、黒いすすで汚したようなスリップした跡、砕けかけたコンクリの破片。 そして。 雨の中で三時を指したまま、倒れ壊れた時計台。 そして、見捨てられた迷子のように、クリスタルが割れ、針の飛んだ、時を刻むことのない腕時計が一つ、現実から取り残されていた。 「どうしてこんな……。ひどいよ、喬」 彼女は、涙ではれぼったくなった赤い目をしながら言った。 喬? まさか……。 「沙耶、なのか」 そう言うと、綾乃さんのウェーブのかかった茶色っぽい髪が、漆黒の長いストレートになり、大きな瞳に涙をいっぱいにためた沙耶になる。今にも溢れそうな涙。 「あたし、ずっと待ってたのに」 「沙耶っ……」 俺は思わず駆け出していた。 だが、彼女は抱き締めようとすると、ふっと遠のく。風に流されるように自然に。 「待てよ。待ってくれよ、沙耶。遅れたのは悪かったさ。謝るよ。だからもう止めてくれよ。こんな、タチの悪い冗談なんてさ……」 俺は、涙でにじむ彼女を追いかけながら、グズグズに溶けていく身を切るような切なさを抱き締めて泣いた。 「だって、そうだろ。なんで、こんな……こんな思い……」 沙耶の悲しそうな哀れむような顔。 でも、ソレハ、俺を責める、ヒトミ。 「そうなのか……やっぱり、俺……なのか……」 俺の手の中に雨の雫が、そして涙の雫がこぼれていく。 「待ってたんだよ。ずうっと……。どうして来てくれなかったの……」 「ちがうんだっ……ちがうんだよぉ……」 子供のように泣きじゃくりながら、首を振り続ける。 まるで、そうすれば、自分の中の罪の意識から逃れられるとでもいうように。 「待ってるのよ、まだ。喬が来るのを」 白いワンピースが紅く染まり、服が切り刻まれたように破れ始め、ヘアバンドで止められた髪が、水面に広がるように風に舞った。 「痛い、痛いよ、喬ぃ。痛いよぉ」 彼女が泣き叫ぶ。 そのとき、何かが切れた。 俺をここに繋ぎ止めていた何かが。 それは、未練か。名残惜しさか。 けれど、体を縛り付けていた重い枷を外したように、あとは簡単だった。 そして妙に身軽だった。 俺は走った。 糸を切られた風船が一直線に天に昇って行くように。 沙耶に少しでも追いつこうと。 彼女が、待っていてくれるところまで。 遠く響く澄んだ音階。 雨のバラードじゃない。 沙耶の得意なピアノソロ。 ソプラノの歌声がそれに重なり、いまや、荘厳なハーモニー。 何もない世界で。 届いた。 俺の夢中で伸ばした手が、沙耶の血にまみれた傷だらけの手の中に。 瞬間、彼女が初めて微笑したように見えたのは錯覚だったのだろうか。 モニター上の、ほんの瞬きする前には、弱々しくではあったけれども波打っていたそれは、いまや、動かしようのない直線に取って変えられていた。 「先生、心音が……」 白い清潔なシーツの向こうに、同じような白い医服を着た男は、残念そうに目を閉じた。 そして、握っていた血まみれのメスを置く。 「時間を記録してくれ……手は尽くしたんだ……」 待っていたんだよ……。 待っていたんだ……。 進まない時間。気の遠くなるほどの静寂。 それを許さない雨音。 路面に薄く広がる波紋のように。 ゆるやかに。 穏やかに。 それでも時は動いている。 人気のない小さな広場の中心に時計台があった。 雨がやみ、潤った涙が乾ききる頃。 倒れ、壊れた時計台の、ひしゃげ、動くことのなかった針が、覚めやらぬ悪夢の終わりを告げた。 チッ……チッ……チッ……チッ…… \:>now write over 1992/10/4 \:>now arrenge over 1992/10/7 |