筆にたっぷりと絵の具をつける。
色彩というのはひどく曖昧なものだ。
例えば緑と赤の境界はどこにある?
答はおそらく誰も知らない。正解に近い解答もあるだろう。もっともそれは正解に近い解答であって正解ではない。
主観的にか、もしくは客観の中にだけ、真実がある。当り前な理論だ。主観と客観は全てを内包するから。が、その当り前という言葉そのものに我々は踊らされている。
もしこのとき主観と客観のちょうど境界に居たとするとどうだろう。緑と赤を混ぜ合わせた世界に。それは色盲といっしょだ。灰色。混沌としたものの中に灰としても異質な存在としてある何か。
それが私だ。私は答を求め続ける。
何の答を?
それが判れば苦労はしない。境界という脆い均衡の上に成り立つ曖昧な何か。
私が画家ならば判っただろうか。
あいにく私はなにものでもない。思考そのもの。考え続けるだけ。存在として非常に危うい。純粋な思考ルーチンに最も近い。
しかし、これも近いのであって、けっしてそれそのものという訳ではない。進化の過程の夢の中。
つまるところ私は私を求めている。
私はサトシを待っている。
喰われていく。おれの時間が。腐食するように溶けてゆき、すするように奴は喰らう。いや、そもそも奴とよんでいいのかも判らない。存在をはっきりと認識することができないからだ。
なぜなら、奴には名前がなく、姿といえばおれだけにしか感じられない。
人はそれを狂気とも呼ぶだろう。
だが、違うのだ。奴はいる。奴は確実に存在していて、おれが言葉で言い表せない何かを少しずつ喰い尽くしてゆく。おれの存在そのものを。
それは言葉だ。
言葉はこの世界全体を構成する要素で、もちろん比喩的な意味ではない。
例えば、この手も言葉で組みあがっているだろうし、頭もそう。世界それ自体もそうだが、歩き出せば延々と続くこの道程も、過去からこの先を支配するものまですべてが言葉の意のままだ。
我々は常に考えることから抜け出すことが出来ない。
そして考えるためには言葉のロジックが必要であり、これを組み替えるパラダイムシフトも必要だ。
もっとも、言葉自体は、単なる記号的なデータである。しかし、それが集合となったとき、それぞれが連続する単語としての意味を持つ。これが情報だ。
情報は例えば、具象的なものを捉えるとするならば、音声波形とイメージ画像をリレーショナルに蓄えていく。そして情報のそれぞれにより高階層な符号を見出したとき、それが知識となる。考えるという動作は、こうして構築された知識を駆動することにほかならない。
つまりすべての根源は言葉 。
奴は、自然の法則に従わないものなのかもしれない。だとすれば、この世界で唯一の言葉ではない存在なのだろうか。
それも、違うだろう。
この世界のものではないにしろ、この世界に留まることの出来るポジショントレース機能を備えているのなら、どこかに共通因子があるという事だ。
それでいて普通には感じられない。奴が、おれにしか感じられない存在というのならば、その理屈こそ奴を理解するためのキーワードになり得る。
おれの領域を侵すのでないならそれはそれでかまわない。奴について知る必要などどこにもない。
だが、おれには奴が、おれを嘲るような暗い愉悦の笑みを浮かべているのを、はっきりと感じとれる。感覚を想起することが問題なのだ。それはこの世界自体の構造を根底から崩壊させかねない。
現実だろうか。虚構だろうか。
限りなく現実に近い虚構で組み上がった真実の鏡。映りこむ影は更なる信実か、歪められた偶像か。
夢だろうか。夢ならばいい。残るものといえば後味を残す不快さだけだから。だがもし夢でないとすれば? 現実の、俺が存在する世界と同軸に実在する具体性を仮想的にでも持っているならば。
終りだ。全てが終っている。
おれには何も残らない。体細胞の一つでさえも。涙のひとかけらさえ。
来るな。おれの悪夢達よ。その咀嚼し続けるこの世界を返してくれ。
喰うな。おれの過去を、未来を、刻一刻と響き轟いていく現在を。
一滴のしずく、一片のかけらさえ残らずに喰い荒すのか。水、塊。そして、おれ。おれを、おれの存在の証明を返してくれ。緑色の悪夢。
「パパぁ」
サトシがあどけなく笑って寄ってくる。走って来る。
おれは、抱き上げるために両手を広げた。
……何故?
喰われていくのは俺だ。俺の魂か。いや肉体も。そしてたぶん俺の存在全てだ。
赤い、やつの背中。あれは何だろうか。
馬鹿な。そんなものがここに居るはずがないんだ。こここそ、俺の造った羊水になみなみとつかることの出来るはずの場。子宮のように安堵感のある唯一の場所。
それでも、やつは来る。
来るな。俺は俺のものだ。俺は俺自身のものであって、俺以外の誰のものでもない。お前にくれてやるものなど、ここには一つっきりだってないのだ。
透けそうな淡い存在感。矛盾だろうか。やつはここにいる。だが、やつはここにはいない。
そう。やつは境界にいるのだ。ここと、ここじゃないどこかの。だがそれが判ったからといってどうすることが出来るというのだ? 俺には、やつを排除するための力がないのだ。境界に届く力が。
俺はどうすればいい?
「パパぁ」
サトシが走ってくる。俺は抱き止める。幸福な時間。だが俺はいつも恐れている。しのびよる恐怖。いつのときでもそれがある。心の片隅に。そして少しずつ心の全てを蝕んでいくのだ。
電脳操作卓の銀色のパネルに手を触れる。その金属の光沢を感じさせる手触りが、俺の脳髄を、細胞の一つ一つを、安心というこれまた不確かな感情で包みこむ。
やつはすぐそこにいる。けれど、この端末は聖域なのだ。やつがこの結界じみた現実という檻を破ってまでこちら側に来れるものか。
悔しそうに俺を呼ぶ声が聴こえる。善悪を越えた何か。俺には判っている。俺自身が造り上げた神だからだ。それとも悪魔か。知的探求心の塊。赤き理想の怪物。仲よろしきポーカー仲間。自嘲気味の笑い。そいつは傑作。
電脳空間に棲むもの。俺を喰らうのもやつだろうか。
「あはははhAhaAhA……」
笑い。激しい嘲笑のように俺の脳裏に突き刺さる。
俺は我知らず恐怖の叫び声を上げる。抱き上げているはずのサトシが、くぼんだ眼窩でカタカタと笑ったのだ。
骸骨。子供の、いまだ未発達の小さい骨。白く、輝いている。まるで昨日洗ったばかりのように美しい。
嘘だ。夢だ。夢にちがいない。
涙が溢れ、眼化から流れ落ちる。骸骨に飛沫が跳ねて、その染みが広がってゆき、白は灰へと染まっていく。灰色。なんだろう? この懐かしい感じ。
夢だ。死を前に見る最後の美しい夢。
骸骨が、腕の中で身じろぎする。
サトシが灰色の口を開いた。
「いいや現実だよ、パパ」
おれはタイプを打つ手を止めて、今まで書いてみたところの文章を眼鏡越しに眺めた。画面はグリーンのディジタル文字で埋め尽くされている。
創作か。真実か。危うい境界。ノンフィクション。そう、まったく本当の事なのだ。おそらく。
我々は皆、真実に吐き出されている。虚構に取り囲まれている。
最先端の悪夢だ。おれは思った。
緑色。恐れる必要はまったくない。喰われるのでなければ。だが、おれにとって恐れることは必要なことだった。儀式といってもいい。何がどう、とは説明できないが、それが境界を知る唯一の方法なのだ。
おれは恐れなければならない。そう義務づけられているのだ。
「パパぁ」
サトシが走り寄ってくる。敷居の縁につまずいて転んだ。泣き出す。これは違う。それとも変わっていくのか。さっきは転びもしなければ、泣き出しもしなかった。同軸直線上に、わずかずつのずれを幾通りも持つ現実。極小の間隔で位相のずれを生ずる平行世界。どれもが、並列に存在するのではなくて、一つが現実となり、残りの全てが可能性として残され、虚構という命を持つ。
サトシを抱き上げる。ああ、泣かないで、坊や。ほら、手を振り回すのは止めなさい。
ふと、手の甲に軽い痛みを感じた。擦過傷。サトシの爪ででも引っ掻かれたのだろう。たいした傷じゃない。一本の細い引っ掻き傷。
サトシを子供部屋に入れて、おれは仕事場に戻る。
電脳操作卓の銀色のパネル。いや、淡いクリームグレイ。二日前に塗装したんだ。有給休暇の半日休日。ここはおれのもっとも心休まる場所。
電極を両のこめかみにセットする。没入。おれと世界をつなぐ細いケーブル。支柱のない旧い吊り橋よりは、ずっと確かな繋がりだ。おれを開放する道へと続く橋。すべてのしがらみから解放される瞬間。
視界をよぎったおれの手が、血の色に滲んだ。目を擦る。
いつからおれの血は赤色になったんだろう?
粒子の乱舞。TVの走査線。画面が燃えるような赤を映した後、ブラックアウト。消えるのと同時に照明も落ちた。停電。
ブレーカーでも落ちたのだろうか。せっかくいいところだったのに。TVドラマのミステリー。連続殺人犯が、逮捕されたところだった。殴りつけられた犯人の手の甲から、赤い血が滴となって滑り、地に波紋を広げる。
赤い……血。まさか、あの赤色の仕業じゃないだろうな。赤? 赤? 赤? 赤? ……やつのことか。俺の恐怖。それとも。
サトシが走ってくる。だめじゃないか、もう寝る時間だぞ。
「パパぁ」
幼い舌足らずな声。そこで転ぶ、そう俺は思った。経験から裏うちされた確信。そして泣くはずだ。
だが、サトシは転ばなかった。泣きもしない。変だ。おかしい。少なくともTVではそうだった。犯人が捕まり、殴りつけられ、転んで泣く。立ち上がり、骸骨の不自然に白い頭部だけを俺に差し出し……いや……。
擬験だろうか。違う、はずだ。俺はまた喰われていたのだ。いつの現実か。終らない。続いてゆく。果てしなく。永遠? そんなものは存在しない。
再びやつの存在を思い出す。動け。動くんだ。判断しろ。考えるんだ。そして冷静に行動すること。見る、つまり視覚は情報入力手段の一つにすぎない。処理するためには、考え、歩き続けることが必要だ。つまり言葉の本質を知ることが。奴をだしぬくために。
俺は闇の中に一歩を踏み出した。暗い森の色の影を曵いて。
おれと対決するために。
シムステイム・アウト。シミュレーション・オーバー。二人は、皮膚電極をはずす。眼鏡を掛けた方が先に口を開いた。
「結論は狂気か」
「新しい自己の確立でしょうね」
「分裂症じゃ話にならん」
「仮定からそうでしたから。INPUTが二つ。結論的にOUTPUTが一つになればよかったんですから、成功と言えるんじゃないですか。それにAIにはいくら人格があっても邪魔にはなりません。物事を他面的に見ることが、次代の思考ルーチンには求められると思いますが」
「しかし野蛮だな」
「多重人格複合個体。発展や進化とは葛藤の中に生まれるものですよ。人類の歴史がそうだったように」
「ふん。まったく新しいタイプの擬験機器か。市場にはいつ出せる」
「冬頃には」
「遅いよ。SSCは、次のテクニクスに例のものをサンプルとして発表するそうだ。うちは秋の終る前に出荷出来るくらいの日程でキャンペーンを組む」
「わかりまし……」
「パパぁ」
二人は振り返る。恐怖にひきつる。
サトシが走ってくる。サトシが飲み込む。奴の口が開く。自分をを飲み込む。奴? 誰の事?
……俺の時間の中で。緑色の巨躯が。赤い血が。おれの時間の中で……
出会いは、そう、私の口から直接語るものではないだろう。
しかし、私は盲目であるがゆえに、彼らの口調から彼らの自分自身に対する恐れのようなものが感じ取れたものだ。
彼らは、言葉を核とした存在の中に、共通項を見い出し、その本質に迫ることで自己を表現、もしくは革新させようとしていたのかもしれない。
サトシが、彼らの言葉、つまり新しいコミュニケーション言語だとして、それぞれが、自分を特徴づける色に染まったとき、私は新鮮な思慕を感じた。
それゆえ私は画家たらんと欲す。だが色盲の私に何が描けるのだろう? 愛し求めやまぬ、この思いは何をもたらすのか。
灰色の夢の中で、私は境界を知る。
EOF
キャンバスは塗りつぶされた。